名古屋事務所・第二回研究会のご報告

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【写真】左から、名古屋事務所長・山本恵子さん、講師の石黒文香さん、ゲストの方、鈴木理事長と
2009年12月5日、名古屋事務所の第二回研究会を開催しました。講師はMPJ「ユースの会」代表だった石黒文香さんです。石黒さんはコロンビア大学地球研究所(ミレニアム・シティ・イニティアティブ)との提携で、2009年6月から5ヵ月間ケニア第3の都市キスムで公衆衛生部門を中心にボランティア活動をしてきました。
【テーマ】「ミレニアム・シティーでの活動と現状について」
【講師】     石黒文香氏(東京大学経済学部4年休学中)
【日時・場所】  2009年12月5日(土) 13:00~15:00
ウィンクあいち(愛知県産業労働センター)1304会議室
【概要】     
1.はじめに
2.ケニアについて
3.キスム市について
4.ミレニアム・シティー
5.Manyatta A(スラム)
6.小学校(Primary School)
7.私の活動
8.質疑応答
「続き」に報告書を掲載します。


1.はじめに
私は今、東京大学経済学部の3年生と4年生の間を一年間休学しており、2009年の6月から11月まで、ケニアのキスムという第3の都市でインターンをしていた。2008年、ミレニアム・プロミス・ジャパンがNPOとして設立される段階から学生として関わらせていただいて、そのご縁で、アフリカに行きたいという希望を鈴木理事長に伝えたところ、コロンビア大学地球研究所のコースでインターン派遣があると知り、今回このような貴重な経験をさせていただいた。
2.ケニアについて
ケニアの人口は3750万人である。この3750万人というのは2007年の記録で、現在は4000万人を超えているといわれる。面積は58.3万㎢で日本より大きい。
■ 公用語
公用語はスワヒリ語と英語である。小学校から、数学も理科も全て英語で教育が行われるので、彼らは英語を流暢に話すことができる。ケニアには42の部族があり、それぞれに母国語があるので、小さいときはその民族の言葉(ルオ族だったらルオ語、マサイ族だったらマサイ語等)を話し、小学校に行くときに英語を話すようになり、スワヒリ語は日常会話で使うというように、3ヶ国語位を話せる子がとても沢山いる。
■ 主食
ケニアの料理.jpg
主食は、ティラピア、ウガリ、スクマ、ニャマチョマ、ウデング等が挙げられる。ティラピアとは川魚のことである。ケニアはビクトリア湖とインド洋の間に挟まれた国で、ビクトリア湖で盛んに漁業がなされている。ウガリと言う主食は、甘くないトウモロコシを砕いて粉にしたものを、沸騰させたお湯に入れ、それをこねたもので、毎日食べるものである。彼らはフォークやスプーンをあまり使わず、魚もウガリも全て手で食べている。野菜はあまり種類が無いのだが、スクマという料理があり、日本では青汁等でよく使われているケールという野菜をトマトと玉ねぎで炒めて食べていた。ニャマチョマというのは、牛のバーベキューのようなものである。彼らは豚を食べないが、牛はよく食べる。ウデングは、緑の豆を煮たものであり、これもよく食べていた。そして、フルーツがとても豊富で、パイナップルやパッションフルーツ等もよく食べていた
3.キスム市について
市キスム.jpg私が5ヶ月間滞在していたキスムは、ケニア西部のビクトリア湖(ケニア、タンザニア、ウガンダに囲まれており、淡水湖としては世界で2番目に大きい湖)のほとりにあり、ニャンザ州の州都で、ケニアで第3の都市である。なお、ケニアで最も大きいのが首都のナイロビで、次に大きいのがインド洋沿岸のモンバサである。
人口は55万人ほどおり、ルオ族という民族が中心で、彼らはルオ語を話す。
気候は年中15℃~30℃、日本の7月くらいの気候で、朝は少し肌寒くて、昼間は温かかった。雨季と乾季があり、雨季には夕方にスコールが10分程度降って、乾季は全く降らない。
キスム市から車で45分位のところにミレニアム・ビレッジがあるのだが、その奥のコゲロという地域にオバマ大統領の父方の親戚が住んでいる。今は少し観光地になっており、オバマ大統領がノーベル平和賞をとったときもメディアが沢山キスムに来てお祭り騒ぎのようになっていた。
4.ミレニアム・シティー
私はミレニアム・シティーという、ミレニアム・ビレッジに一番近い都市でインターンをしていた。ミレニアム・シティーは比較的新しいプログラムであるため、まだアフリカには7カ国9都市しかない。ケニアにあるのはキスムのみであり、西アフリカに多くある。
ミレニアム・シティーは、ミレニアム開発目標の達成を目指している。その中でキスムは世界初のミレニアム・シティーといわれており、アフリカで一番はじめにミレニアム・シティーに任命された。町の空港から市内に行く途中、大きな看板でキスムは世界初のミレニアム・シティーであるという看板が出ている。
キスムのスタッフは、現地スタッフが3名で、3名ともケニア人である。公衆衛生、マニヤッタスラムの都市計画、教育等を幅広く扱っており、以下のドナーのファシリテーターとして活動している。
①コロンビア大学地球研究所
②現地のNGO
③海外からのドナー(イスラエル政府からの医療支援や、アメリケアというアメリカのNGOから医療物資の支援等)
④キスム市政府
5. Manyatta A(スラム)
キスム.jpg主に活動をするところは、Manyatta A(マニヤッタA)というスラム地域であった。この地域はキスム市にあるスラム街の中で2番目に大きいものである。なお、1番大きいのはニャレンダという、私が住んでいた住宅街の奥にあるスラムだった。
Manyatta Aは、人口5万人程のスラムで、一見すると比較的道が整っているので、これが本当にスラムなのかと思う方がとても多いのだが、中に入ってみると、あまり整っていない環境である。電気は不安定ながら通っているのだが、下水道が全く通っていないので、年に1回ほどコレラの発生等がある。
スラムにある典型的な家は、赤泥と木で作った壁とトタン屋根でできている。同じケニアでも地域によって家の構造が全く異なり、沿岸部では石が多く使われており、マサイ族の家は牛の糞で作られている。
下水道が通っていないので、トイレやシャワーが家の中になく、用を足すのは外だった。
燃料を売る女性.jpgこのスラムでは、女性がとてもよく働いており、男性は昼間でも道の脇で寝ていたり、座ってしゃべっていたりしたのが印象的だった。たとえばある女性は、料理の時に使う石炭が高いので、それに泥や石や紙やゴミ等を混ぜて、小分けにして乾燥させて、一つをだいたい1~2円で売っていた。スラムの中にあるマーケットには、女性が多く見られ、野菜やフルーツを売って生活していた。
6. 小学校(Primary School)
私がインターンをしていた事務所は、扱うテーマが幅広かったので、教育や公衆衛生等、色々なお手伝いをさせていただいた。私の活動の中でメインだったものが、小学校での活動である。
Manyatta Aのスラムには4つの小学校(Primary School)があった。
■ Primary School
キスムの小学校.jpgケニアの教育システムは、Primary Schoolが8年間で、日本でいう小学校1年生から中学校2年生までの教育が、義務教育とされている。数年前からPrimary Schoolが無償化されたので、無料で通うことができる。しかし、ユニフォームやテキストは自分で買わなくてはならず、ユニフォーム代が払えない家庭や、あまり教育を重視していない家庭等では、まだPrimary Schoolに通えない子どももいる。ただ、この無償化が進かなり進んできたので、識字率も非常に上がっており、ケニアは70~80%ほどの識字率があるというデータもある。
■ Secondary School
8年間のPrimary Schoolが終わった後に、4年間の高等教育であるSecondary Schoolへの進学がある。Primary School の8年生の終わりに、日本でいえば入試のような、全国一斉のテストがある。その成績によって、行くことのできるSecondary Schoolが決まる。
ただ、成績が良くてもお金が払えない学生はもちろん行くことができないし、Secondary School自体の数が少ないという問題も抱えている。また、Secondary Schoolになると学生はだいたい中学校3年生から高校3年生の年代なので、特に女性が卒業せずに落第してしまう傾向がある。結婚や妊娠のために、せっかく卒業できる成績を持っているにも関わらず、たとえば夏休みが来て次の学期は学校に来なかったというようなことが頻繁に起きているのである。こうしたことも今は問題視されている。
■ 小学校の様子
ケニアで2番目に大きいといわれている小学校には、約2,000人の生徒がいた。教科書が足りなくて1冊の教科書を3人で見ていたり、校舎は床が泥だったり、窓ガラスがなかったり、貧困の中で一生懸命勉強している様子であった。私が訪問するたびに歌を歌ってくれて、笑顔で皆が迎えてくれるので、彼らの笑顔がケニアでの生活の困難を和らげてくれた。
なお、スラムの小学校4校のうち、給食システムが整っているところは1校しかない。給食システムがない小学校では、皆、昼間は家に帰って食べて、食べ終わったらまた戻ってくるという生活である。
小学校では、日本の学校のようにクラブ活動が盛んであり、エコクラブやエイズクラブ等があった。エイズクラブでは、エイズの教育を受けてそれを友達に教えてあげる活動をしていた。保健クラブは、公衆衛生の教育や講演を週に1~2回程度行ってくれるNGOがあり、そのNGOが学校に来て子どもたちの前で講演をし、それを子どもたちがクラスに戻って皆にシェアをするということを行っていた。
7.私の活動
■ 小学校の視察・データ表の作成
石黒さんとキスムの子供.jpg<私が小学校の視察をしたときに感じたのは、全くデータがないということである。市の教育委員会でさえパソコンがないような状態であり、データを蓄積しないので、分析が全くできていない状態だったのである。そのために、政府から資金をもらっても、どこにお金を与えたらいいのかがわからないという状況だった。そこで、小学校4校を視察したときに、生徒の数やクラスの数、先生の名前や数等を全部書いて、エクセルの表を作成した。 また、私が行ったニャンザ州というのはケニアの西部でマラリアが非常に多い地域なのだが、エイズも蔓延しており、ケニア全体のエイズ感染率が7~8%といわれている中、キスム周辺は14~15%といわれていた。このスラムの小学校にもエイズ孤児が沢山いて、保護されている孤児もいれば、小学生なのに一人で生活している孤児もいた。そういう孤児の数や、孤児の状態等も記録した。 他にも、ガイダンスアンドカウンセリングといって、たとえば家庭内暴力やレイプを受けたことについてのガイダンスやカウンセリングのクラブがあったり、エコクラブといって、農作業を学校の構内でやるクラブがあったりしたので、そうしたクラブの種類も記録した。 給食の有無、机や教科書の有無、電気が通っているか否か、水があるか否かということについても全く記録がなかった。よって、たとえば突然来たNGOが学校を見て、この学校は水がないと指摘しても、他の学校の状況がどの程度違うのかということが全く分からない。たまたまNGOが来て、たまたま水が通っていなかったから水をサポートしてあげるというのは、よくあるパターンであり、このようにキスム市の教育全体像を知らずに行う支援の仕方がとても多かった。もう少しデータを蓄積すれば、政府やドナーの予算の分配を決める参考にすることができ、開発につながるのではないかと思って、こうした活動を行っていた。 キスム市の教育委員会はとても小さな建物の中にあり、パソコンも一台あるかないかという状態だ。その中で統計局の職員の一名で、その方と一緒にデータ表を作っていた。私が視察したのは小学校4校だが、キスム市には約120校の小学校があるので、その120校の小学校で来年からこのデータ表を使用する予定である。 ■ 住民組織の話し合いへの参加 」キスムの集会所.jpgManyattaには、Neighborhood Associationという住民組織がある。スラム街の中に、世界銀行が1960年代に建てた集会所があり、彼らは週に2~3回そこに集まって話し合いを行っている。たとえばコレラがどこかで発生したとか、地域の中で盗難が起きたとか、夜の治安が悪いとか、そういうことを彼ら自身が話し合って解決する。私は月に2~3回この話し合いに参加し、彼らの組織運営についてアドバイスを行った。
比較的新しい組織なので、最初は全く話し合いにならず、一方的に意見を言ったり、愚痴を言い合ったりするような状態だった。しかし、時間を経て段々会議のやり方がわかってきたようだった。議長や秘書を置いて、体系化した議会の運営を行い、話し合いもそれなりに行われるようになった。
■ コミュニティ・ヘルスワーカーの組織作り
私がもう一つ行っていたのは、コミュニティ・ヘルスワーカーの組織作りである。
スラムの中には、コミュニティ・ヘルスワーカーというボランティアがいる。彼らは、家の近所を回って、病人に熱が出ていないか、咳が出ている場合は結核ではないか等を調べ、ひどい病気だったら病院に彼らを送り届けるという活動をしている。ケニアではコミュニティ・ヘルスワーカーが非常に盛んで、ミレニアム・ビレッジのサウリ村でも行っているし、ここでも色々なNGOがコミュニティ・ヘルスワーカーの訓練をしていた。訓練の期間はNGOによって異なり、2週間訓練させるNGOもあれば1年間訓練させるNGOもあった。訓練では、基本的な健康状態のことを教えたり、マラリアになった時に飲ませる薬等の一般的な知識を教えたりしていた。
また、コミュニティ・ヘルスワーカーの中には、助産師のような訓練を受ける人もいた。未だにキスムの地域では、妊婦さんが危ない状況の時にお祈りをするような、伝統的な医療を信じている人もいるため、これに対する危機感が広がりつつあり、妊婦さんが危ないときには市の総合病院や州の病院に搬送するよう、訓練を受けていた。
8.質疑応答
質問:なぜ、アフリカへ行ってみようと思ったのか。
石黒氏:現在、家族が父の仕事でインドに住んでおり、4年前にはじめて貧困という状態を見た。ケニアもそうだが、インドのお金持ちと貧困の差はあまりにもひどい。大学1年生の夏にこのような世界があることにはじめて気付き、それ以来、開発援助に関わってみたいという想いがずっとあった。3年生になり実際に就職活動になったときに、本当に開発の世界で一生仕事ができるのか、アフリカ等に行って本当に生活できるのかということを疑問に感じていたので、そこで思いきって休学して行ってきた。
質問:行ってみてどうだったか。
石黒氏:私はとても好きである。彼らは、日本のようには礼儀正しくないし、テキパキ動かないし、時間にもルーズで、会議には2~3時間遅れてくる。最初は、2時に始まると聞いた会議に時間通りに行って待っていても4時にならないと人が来ないので怒っていたが、次第にそういうのにも慣れて、そういう生き方もあるのだと思った。また、彼らはフレンドリーで、優しくしていただいたので、とても良い思い出になった。私が何かをできたというよりも教えてもらったことの方が多い。非常に過酷な、電気が無いような状況でも生きていけるのがすごいという思いである。
質問:私たちはこんなに物が沢山ある生活をしているが、彼らにはそれがないのが普通で、そうした違いもあるから、お互いに学んだことがあるのではないか。
石黒氏:テレビがかなり普及してきて、アメリカのテレビ番組が報道されているので、ああいう生活がしたいという願望が彼らにもあるが、やはり、今の貧困の中で、自分のコミュニティの中で、頑張って生きていこうとしていた。彼らは、毎日食べていけるかどうかというところで生きているので、毎日毎日をすごく大事に生きている。私も毎日を大事にしないといけないと感じた。
質問:石黒氏のような若い方がアフリカでこのような説明をして素直に受け止めてもらえるのか。ケニアには、年配の方を重んじるような文化はあるのか。
石黒氏:ルオ族は、外国からのものや文化を非常に歓迎する民族である。他の地域と比べて英語もとてもうまいし、町を歩いているだけで声をかけてくれるような民族なので、年配の人たちとも同等な立場で話をすることができた。
しかし、彼らが、外国人を皆、ドナーだと思い込んでいる点は辛かった。たとえば小学校に行って、私は学生で寄付も何できないのだが、学生でもできることをしたくてここへ来たといっても、このトイレはこんな状態だとか、ゴミの回収に車があったら良いというような感じで、お金や車をもってきてほしいというような話をされるので、最初は非常に苦労した。それを分かってもらうためには時間がかかり、コミュニケーション能力も必要だった。
質問:日本人の学生としてできることは何があるか。
石黒氏:何でもできると思う。たとえば私が住んでいた家のハウスキーパーの女の子は、両親がおらず、妹と弟を一人で支えていかねばならないという状況だった。キスム市はあまりカフェがない都市なので、その子は小さいカフェを建てたいと言っていた。その時に、私は友達として、どのような飲み物を出したらよいか、どのような営業をしたらよいかという相談に乗り、彼女が自立してそのレストランを経営できるようにアドバイスした。
他にも、スラムはとても汚いが、彼らはそれを当り前だと思って生活している。日本では、ゴミが落ちていたら自分できれいにするが、彼らはゴミを家の前に捨てるのが当たり前と思っている人が多い。スラムでは、ゴミ回収の制度が整っていないので、皆自分の家の前や空き地にゴミを捨ててしまうのである。それを豚や牛が食べて、動物と一緒になって生活しているような状況なので、彼らにゴミの回収方法を教えるだけでも、彼らの生活状況は変えられるのではないかと思った。こうしたちょっとした知恵や意識改革は、学生のうちでも彼らに伝えることができると思う。
質問:現地の学生の方との交流はあったのか。
石黒氏:ナイロビでの大学生の交流があった。やはりケニア人は、ケニアの国のことを一番よく知っていて、彼らは、自分の国がなぜ発展していないかを一番よく考えている。彼らがよく言うのは、政府が悪いということだ。もちろん政府だけのせいではないのだが、大統領や国会議員の権限がとても強いので、本当にお金持ちの人だけがお金持ちになって、富の分配がされていないのである。ケニアの場合、植民地が独立した時から憲法が全く変わっておらず、その憲法のせいでリーダーが非常に権力を持っている状態である。ケニアの学生はこうした政治的な問題についても色々な議論をしており、日本の学生よりも国のことを考えていると感じた。
質問:日本について何か聞かれたことはあったか。
石黒氏:ケニアには電車がない。イギリスの植民地時代に作られたのだが、古すぎて今は使われていないのである。よって、日本の新幹線の話をすると、乗ってみたいと言っていた。また、食文化については、向こうでは、生魚は食べられないと思っているので、お寿司で生魚を食べることに抵抗があるようだった。また、宗教については、キリスト教やイスラム教の人が多いので、日本人はあまり信仰心が深くないと言うとなぜだという話になった。
質問:この経験を今後はどのように活かしていこうとされているのか。
石黒氏:ケニアの他にもルワンダ、ウガンダ、タンザニアを旅して、人がとても温かいと感じた。今は経済の勉強をしているので、ゆくゆくはエコノミストだとか、雇用政策に関わりたいと思っている。キスム市は自転車タクシー(自転車の後ろに乗るタクシー)が今普及しており、そのドライバーがとても多い。なぜなら、キスムには工場等があまりなく、仕事が無いからである。投資されてもナイロビに集中してしまい、ナイロビには外国人も沢山いて国連機関も沢山あるのだが、キスムまで届かないので、失業率が20~30%と非常に高い。年配の人も一度仕事についてしまうと退職したがらないので、若い人が新しい仕事に就けないという悪い循環ができてしまっているので、そうした雇用をどうにかできないかと思っている。
鈴木理事長:石黒氏がキスムに行くという時に、私共は安全面を非常に心配した。なぜなら、2007年の大統領選の結果、民族間の戦いがあり、キスムは激しい紛争地点の一つだったからである。先日サックス教授がいらしたときに、ミレニアム・ビレッジは、周囲で紛争が起こっていても、自分たちの村を自分たちで守ろうとしたために大きな紛争が起こらなかったとおっしゃっていたが、その点はいかがだったか。
石黒氏:2007年からまだ3年弱しか経っていないので、燃えた家などがそのままにしてあった。暴動は国内で1000人ほど亡くなった非常に大きなもので、ルオ族とキクユ族(ケニアで一番大きくて22%ほどを占める民族)との戦いであった。キクユ族はもともとビジネスがうまい民族なので彼らが経営していたゲストハウスやオフィス等が市内に沢山あったが、ルオ族にもプライドがあり、キクユ族にあまり来てほしくないと思っていた。2007年の大統領選で、キクユ族に不正があったことに彼らは怒り、家を燃やしたり、警察官が市民を殺したりするようなひどい状況があった。この暴動について、色々な人にその時はどうしていたのかとインタビューのような形で聞いていたのだが、やはり彼ら自身がびっくりしたと言っていた。ケニアは東アフリカの中で一番といわれるほど政治的にも安定している国で、ナイロビは非常に発展している。そういう国が大統領選で突如、民族同士が戦うようになってしまったということに、彼ら自身もショックを受けていた。その時期は2週間位ずっと家にいて、外に出られなかったと言っていた。ただ、今はもう安全で、普通に平和に暮らしている。
質問:向こうに行って大変だと思ったことや、辛いと思ったことはあるか。また、日本人の次の学生たちが援助に入るときには、こういうことがあったらよいのではないかと思った経験等はあるか。
石黒氏:まず、私がマラリア等の熱帯系の病気にかからなかったというのは非常に幸運なことだったと思う。チフスやコレラになりやすいので、それはやはり大変だと思う。
また、彼らと接していると非常に疲れる。一生懸命伝えるのだが、常識が違うのでなかなか分かってもらえなかった。どうやったらわかってくれるのだろうということを毎日考え続けなければならなかった。
質問:具体的に、何が一番伝わらないのだろうか。常識が違うというのはどういうところか。
石黒氏:私は基本的には、日々生活する中で、働いてお金を稼いで、そのお金で子どもを学校に通わせて、ご飯を食べるというのが当たり前だと思っていたが、彼らは働きたくないから働かないとか、勉強したくないから学校に行かないというような状態である。今の状況でも、贅沢はできなくても食べるものはあるし、まあよいだろうというような生活だった。そのままだと彼らが変わらないので、いつまで経っても開発されないという思いが私にはあったが、私の今まで日本で思っていた開発論が全く通じないのだと思った。
現地では、現場の状況を分かっているNGOはとてもよい活動をしていたが、分かっていないNGOもあった。たとえば井戸を掘ったのにポンプを備えるお金が無いから井戸を掘ったところで援助を切ってしまうというような事例が非常に多くみられた。そうしたやり方はとてももったいないと感じた。
質問:日本として、また、ミレニアム・プロミス・ジャパンや学生の方が、こういうことをやったらよいのではないかと考えたことはあるか。また、何か可能性のようなものは感じたか。
石黒氏:日本人は我慢強いので、何かを買うために2~3時間並ぶこともある。アメリカ人だと待たずにすぐ帰ってしまう。そうした我慢強く、忍耐強いところは日本人がすごく活かせるところだと感じた。
そして、日本の特徴としては母子手帳等の日本ならではのシステムも挙げられる。教育を受けているケニア人は、日本がどうやって戦後からここまで発展してきたのかということを知っている。そういうノウハウや、どのようにすれば日本のように発展できるかということをよく聞かれたので、そういう応用もできたらよいと思っている。
鈴木理事長:タンザニアのミレニアム・ビレッジでデータ入力をした大学院生からも、母子手帳がすばらしいアイデアなので、是非プロジェクトに取り入れてほしいと言われた。私もミレニアム・ビレッジに何か所か行ってきたが、村でカレンダーや時計を見たことがない。母親は子どもの誕生日を、たとえば確か何年の8月だったという程度にしか覚えておらず、その結果、8月生まれの子は皆8月1日生まれになる傾向がある。ミレニアム・ビレッジでは、今、データを作って集めているのだが、このように正確な記録がないということに非常に困っているので、母子手帳はとても役立つアイデアだと思われる。
アフリカ人が時間を守らないという感覚だけは、私たちも辛いと思うことが度々あった。しかし今は皆、時間を守ろうとしたり、自分たちが時間を守れるのだということを示そうしたりとする風潮がある。7月にエチオピアのアディスアベバでミレニアム・ビレッジの全体会議が開かれ、200人以上が集まった。アフリカの人は150人以上いたが、皆が時間を守り、朝の8時から19時までびっしり会議をしていた。皆がしっかり時間を守ってすばらしかった。
そして、教育についてだが、たとえばオリセットという住友化学の蚊帳があるが、これを使ってもらうためには、だいぶ忍耐強く教えなければならない。彼らはその蚊帳さえあれば大丈夫だと思い込んでおり、穴があいても大丈夫だと思っている人もいる。そこまで言わなければならないのかと思うが、穴があいたら蚊が入ってくるから、蚊帳があるだけではだめなのだということから伝えなければならない。それから、蚊帳を無料で普及させても、たとえばタンザニアのミレニアム・ビレッジは蒸し暑く電気もないところなので、扇風機も使えず、そのような環境で蚊帳を使ってもらうためには、色々と長い時間をかけて説明することが必要だった。私がサックス教授たちと訪れた時は、ヘルス・コーディネーターがお芝居をして、蚊帳の使い方やエイズの予防について具体的に教えていた。なお、マラリアの原因となるハマダラ蚊は夜の11時から5時くらいまでしか働かないらしい。だから、このプロジェクトでは蚊帳によって9割方マラリアが防げているという話だった。
ミレニアム・ビレッジは、だいたい5000人の村を1単位(1ビレッジ)として人工的に作られている。プロジェクトの費用は1年間に約3000万、5年間で1億5000万~2億円かかるのだが、一人当たり110ドル程度の予算で行われている。なお110ドルの内訳は、このプロジェクトから60ドル、地元の政府から20ドル、後は自分たちが稼いで10ドル、というような形で拠出されている。
石黒氏:ケニアにおいては、ナイロビは標高が高いのでマラリアの蚊はいない。よって、ナイロビでは蚊帳はあまり必要ないが、標高が低くなってくると必要である。このようにちょっとしたことで蚊帳を必要とするか否かが変わってくる。
鈴木理事長:食べ物に関しては、モザンビークの市場ではイモムシが売られていた。また、モザンビークの科学技術大臣の家では、ヤギの頭が出てきた。これは大変なごちそうで、昔は戦争に行く前に食べるものであったため男性しか食べることができなかったという。今は女性でも食べられるので良い世の中になったと言われた。モザンビークの村では、私たちが村人に料理を作ってあげようということになり、鶏肉を探したところ、生きた鶏を用意され、それを殺して捌くところからやらねばならなかった。ある人が日本人の引きこもりをアジアの国に連れていき、鶏を捌いて食べるのを見たら引きこもりがなおったという話があるが、やはり人間と言うのは、動物とそうした関係を持ちながら生きているということを伝えたり、知ったりすることが大切なのだと思う。
石黒氏:ルオ族には、鳥のお尻の部分を尊敬されている人に与えるという習慣があり、スラムの大きな集会に行ったときに、それを出されたことがある。貧しい中でわざわざ出していただいているものを食べられないとは言えないため、満腹を理由に断った。また、羽をむしるのを忘れて羽がついたまま手羽先が料理されているということもあった。
質問:プロジェクトでは数独をアフリカに送っているが、数独はアフリカの人にも受け入れられていて、歓迎されているのか。どのような人たちに配っているのか。
鈴木理事長:本来のターゲットはもう少し上の年齢の子どもなのだが、ビレッジには小学校しかなく、小学生の子たちができる可能性があるので、今のところ村に配っている。私たちは、大学、高校、中学、小学校で、数独をパフォーマンスしてきた。高校では10分で全部解ける子もいた。向こうはあまりやることがないので、子どもたちに大人気で、数独を通して数字に親しんでもらえると考えている。JICAが現在、理数教育を強化していて、数独の話をおもしろいといっていただいた。将来的には、高校、大学あたりでコンテストを開いて、たとえば優秀な人を日本に招待したいと思っている。
質問:実際に送った数独はまだ届いていないのか。
鈴木理事長:到着までに1カ月から3カ月かかると言われており、最初にウガンダに送ったものはまだ届いていないようだ。あと今一つ困っているのは、東京三菱UFJ銀行のCSR部の方たちが、和紙のちぎり絵を作ってくださり、それをケニアのサウリ村という第1号の村の病院に送りたいのだが、郵便局のユニバーサルサービスがない。キスムまでは届けられるが、その後誰かが直接行かなければならないという問題もあるということがわかった。
質問:鈴木理事長が実際にミレニアム・プロミス・ジャパンをやっていて、困ることや、こういうことが必要だと思うことは、どのようなことか。
鈴木理事長:企業を何十社と回っているが、アフリカ支援というと、ほとんどの場合、日本人かつ遠いと言われてしまい、なかなか自分のことと思ってもらえない。たとえばある大企業でも、うちはグローバルではなくせいぜいアジアと中国に関わる程度だといわれて、なかなかアフリカの支援をいただけないということがあるし、中高年の方たちはやはり遠いとおっしゃる。
ただ、JICAの青年海外協力隊については、現在全体の応募数が下がっているようだが、アフリカを希望する人たちは増えているようだ。その8割が女性だという。そういう意味では、今、世界の目はアフリカに向きつつあるということは良い傾向といえる。
最も困っているのは、NPOの運営としてはお金をどうするかという問題である。日本は寄付税制がアメリカと異なり、認定NPOになるまでは、寄付してもなかなか税金免除にならない。だからお給料が安くなり、私たちも節約して少しでも余分なお金は支援に回したいと思っているので、その辺のバランスが厳しいと思っている。
質問:石黒氏は実際にアフリカに行って、アフリカが遠いと言われることを解決するにはどうしたらよいと思うか。
石黒氏:私も非常に遠い国だと思い込んでいたのだが、実際に触れ合ってみると、皆同じような人間である。良い成績をとりたいと思ったり、普通に恋愛をしたり、同じような人間なので、もう少しケニアやアフリカのことを日本で広めていきたいと思っている。
鈴木理事長:アフリカの人と話をしていると、ストレートに返ってくるような感じがする。ただ、石黒氏の話にもあったように、アフリカの人は貰うことに慣れているので、誰か来たというと、皆これがほしい、あれがほしいと言う。でも最近アフリカの人たちも自立をしなければならないということを良く分かってきていると思うので、少しずつ辛抱強い教育やアプローチをして自立してもらいたいと思っている。
質問:アフリカというと、いくら支援をしても汚職が多いために、7割位が搾取されてしまい、下の方にいかないという話をよくうかがうが、やはりそういうことはまだあるのか。
鈴木理事長:ザンビア出身のアフリカ人女性が、アフリカに支援しても無駄だということを主張して、今論争が起こっている。彼女が言うには、国際機関やNGOはかわいそうな子どもたちの写真を載せてお金を集めるが、それはアフリカ人の立場からみるとプライドを奪ってしまっているという。また、そういう環境があるからこそ、困っているということさえ伝えれば、働かなくてもお金を外から貰えることになるので、5年以内に全てのODAをやめるように彼女は言っている。しかしサックス教授は、たとえばルワンダが今アフリカでもっとも発展しているのだが、彼らが今発展している予算の中を見ると7割がドネーションなので、今ドネーションを切るのは良くないと言っている。私たちのミレニアム・ビレッジ・プロジェクトは、貰ったお金は全て政治家を通さずに直接現地に行って、一人当たり幾らという風に明確な支援を行っている。たとえば私が以前行ったサウリ村では、余剰の農作物を学校に10%寄付するという契約書を交わして、その作物で学校給食を作っていた。給食により学校に子どもが来るようになり、成績も上がり、不良もいなくなった。その学校は180ある学校の中で180番目だったのが、今はトップ10に入っているらしい。よって、本当に支援の仕方によるのだと思う。
石黒氏:私は実際に汚職の現場を見てしまったことがある。ミレニアム・シティーの事務所で、アメリケアというところからだいたい1回に200万位の医療器具をドネーションしていただいているのだが、それを市の公衆衛生の職員の方がいきなりトラックでやってきて勝手に持って行ってしまう場面に遭遇した。事務所のスタッフが非常に怒って、これは私たちが貰ってきたドネーションで、市にドネーションはするけれども、まず分配方法を決めてからでないと分配できないと言った。そういう現場を見て、非常にショックを受けた。
鈴木理事長:アフリカに限らず、あるコンピュータ会社のCSR部のOBの方が、NPOを作って中古のコンピュータを200台ほど、アジアの国に送ったそうだ。しかし、翌年調べたら1台もトレースできなかったということがあった。私たちも送ったコンピュータがあるので、石黒氏に確認してもらったところ、きちんとトレースすることができた。
石黒氏:サウリ村の立派な診療所できちんと使われていた。
鈴木理事長:是非サックス教授の「貧困の終焉」という本を読んでいただきたい。この7月には、「地球全体を幸福にする経済学」という本も出されているので、是非お読みいただきたい。ミレニアム・プロミス・ジャパンのホームページやパンフレットもご覧いただき、是非何かの形で今後ともご協力ご支援をよろしくお願いしたい。

以上