【写真】上段:左から、講演中のアドゴニー氏、ゲストコメンテーターの外務省アフリカ一課・渡邉謙太氏、聴衆のみなさん、
下段:ユースの会の皆さんとアドゴニー氏、初めての駒場祭を楽しむアドゴニー氏、司会を務めた「ユースの会」の國仲君と
2009年11月22日、東京大学駒場祭にて開催されたユースの会「アフリカ連続講演-リアルアフリカ」前半のアドゴニー・ロロさんの講演レポートを掲載します。アドゴニーさんは父親が外交官だった関係で5歳から母国ベナンを離れて、ご自身はベナン人というよりインターナショナル、時には日本人であると思っていらっしゃるそうです。アフリカ全体の近代史をざっくりと分析する主眼は、アフリカ出身ならではの主観的部分と少し距離を置いた客観的な部分が折り重なり、非常に興味深いものでした。
リアル・アフリカ―和フリカンと皆で知ろうアフリカー
【講師】 アドゴニー・ロロ氏
【日時・場所】2009年11月22日(日) 10:00~12:00
東京大学駒場キャンパス 11号館1101号室
【概要】
1.はじめに
2.日本での活動について
3.アフリカの歴史
4.現状と課題
5.紙芝居の上演
6.質疑応答
7.外務省アフリカ一課渡邉謙太氏よりコメント
1.はじめに
本日は、私の出身国であるベナンに限らず、アフリカ全体について話をしたい。なぜなら、アフリカ全体が同じ病気に罹っているからである。
アフリカのことを細かく知るためには、まず歴史の流れを見ていくことが必要である。色々な出来事の積み重ねの結果として今のアフリカがあるからだ。
2.日本での活動について
アフリカ生まれの私は、ヨーロッパ以外の新しい文明に出会いたいと思っていた。そこで地図を見てみると、私はアジアのことをあまり知らなかった。そして、アジアの中では中国が最も大きい。中国がアジアの中心なのではないかと考え、私は中国とベナンの間にある奨学金をもらい、中国へ勉強に行った。それは1996年のことである。
最初に入学した北京語言大学(1996年~1997年在学)で、私はルームメイトとして、日本人のヤマモト氏と出会った。これはとても美しい出会いだった。それまでも私はずっと寮生活を送っており、それはキリスト教の寮だったので、男性との共同生活は珍しいものではなかったが、ヤマモト氏と出会ったときには、彼の美徳、真面目さ、努力に驚かされた。最初の頃、私たちは言葉が全く通じないので、身振り手振りでやりとりをしていたが、彼から日本人の美しさというものを感じたのである。たとえば、「はじめまして」という言葉は日本で聞くと当たり前の言葉であるが、これを中国語で直訳すると、とても神聖な世界を表す言葉のようになってしまう。この他にも「いただきます」という言葉からも、私の祖母がよく言っていたような礼儀正しさを感じた。こうして私は彼に夢中になり、3カ月位は、実家に送る手紙に、彼のことについてばかり書いていた。それだけ私は日本人を好きになったのである。
そして、1997年には中国の演劇の学校に行き、演劇の学校の卒業後に日本に行った。当初は2年間だけ日本を見て行こうと思い、ヤマモト氏といつか日本語だけで話すことを目標に、代々木にある中央日本語学校に2年間通った。テレビの取材がその学校に来た際に、学園長が私を、中国で演劇を学んでいたと紹介し、そこから色々なご縁で、当初2年のつもりが結局は6年間、さまざまな経験を日本ですることができた。47都道府県に行き、富士山も頂上まで登り、色々な修行を行った。また、日本の偉い方にも会う機会がたくさんあった。
3.アフリカの歴史
アフリカは日本から遠いので、アフリカの歴史を知らずに現状を理解することは難しい。たとえば、現地には様々な言葉があるが、これまでの歴史の結果として、公用語がフランス語や英語、スペイン語やポルトガル語になっている。なお、最近はケニアやタンザニアなどの南の国が、スワヒリ語を使って世界にアピールしている。
まず、私が理解している、アフリカの歴史の大きなポイントを簡単に紹介する。
■ 奴隷貿易のはじまりから廃止まで
1492年、コロンブスがアメリカを発見した。この発見によって世界の動きが変わる。スペインの王様の命令で沢山の探検家たちがアフリカを狙って入ることになる。彼らはアフリカの美しさを知り、もっと奥へ入ろうとするが、ジャングルや色々なものがあってルートが危険なので、なかなか奥に行くことができない。そこで、砂漠から入ったり、川を下ったりして、色々なルートでアフリカへ入るようになった。こうした状況は100年ほど続く。
そして今度は、アメリカでの労働力不足を補うために、アフリカで発見した黒人たちを奴隷として働かせることになる。この奴隷貿易については、約3世紀にわたって行われることになる。黒人をアフリカからアメリカへ送り、アメリカで農業をやらせて、そこで儲かったお金でヨーロッパの経済を動かしていた。そして、ヨーロッパからは、少しの砂糖と酒と銃を持ってアフリカに戻り、部族のボスにそれらを与えた。彼らはそれらをもらって興奮し、更に多くの黒人を白人に売るようになり、こうして奴隷貿易は、黒人にとっても白人にとってもおいしい商売になったのである。
19世紀前半(フランス領では1848年)、奴隷貿易は世界的に廃止された。この廃止は、奴隷として売られる黒人たちがかわいそうだからという理由ではなく、機械の力が人間の力にとって代わったからである。アメリカをはじめとする世界の農業は、人間の力ではなくて機械で行われるようになっていった。アフリカの伝統を守る人たちは、3世紀に渡った奴隷貿易の廃止を受けて、ようやくアフリカにこれから余裕がでるのではないかと思った。しかし、賢くて仕事ができる強い男たちはすべてアメリカに連れていかれてしまっている。1850年からのアフリカには、老人と子どもばかりだった。そのために、70歳や80歳の老人が20歳の女性をお嫁にもらうような時代で、デモクラシーも崩れ、色々な悪い文化が増えた時代でもあった。
■ 植民地時代
産業革命によりヨーロッパの経済は発展し、国民の数は増加したが、ヨーロッパは再び問題を抱えることになる。経済状態が良くても、ものを売るマーケットがなく、資源を得るところもなく、増加した大勢の国民を置く場所がないからである。そこで、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリア等の色々な国へ国民を送り、アフリカの各国にも送ることになった。アフリカはこれに反発し戦争も起こったが、結局はヨーロッパ側が勝ち、ヨーロッパによる管理が始まった。これが植民地時代である。1889年頃は、アフリカの王様たちが皆負けている時代である。ヨーロッパ人の話を聞くことができる王様は残ったが、アフリカのことを考える王様は皆消されてしまった。
1900年代に入り、植民地としてのアフリカには、ヨーロッパによる二つのシステムがあった。フランスによるインダイレクト・ルール(間接統治)と、イギリスによるダイレクト・ルール(直接統治)である。この二つは、現在のアフリカの状態にも反映されている。
1850年頃は、イギリスの文明が世界で最も進んでいた。彼らはアフリカのどの国に良い資源(ダイヤモンド、石油、石炭等)があるかを知っていた。他方、フランスはそこまで発展していなかったため、植民地にした国の数や面積は多いが、それらは資源が多い場所ではない。本来ヨーロッパはアフリカに文明、教育、商売等を持ち込むために来たはずなのに、そのためにイギリスとフランスはアフリカにおいて毎回喧嘩をしていた。
■ アフリカの分割
そこで1884年、ベルリン会議において、14カ国が参加してアフリカをシェアした。参加国は次の通りである。ドイツ、オーストリア、ハンガリー、ベルギー、デンマーク、トルコ、スペイン、フランス、イギリス、イタリア、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデン。
当時最も目立っている文明をもっていたのがこれらの国で、彼らによって、世界地図に大きな変化が入ることとなった。中でも、実際にアフリカに植民地をもつことができたのは、フランス、イギリス、スペイン、ドイツ、ポルトガル、イタリア、ベルギーである。イタリアはあまり持っていなかったが、イタリアとリビアの間に植民地をもち、ドイツは現在のトーゴやカメルーンやナミビアやタンザニアの辺りをもっていた。なお、ドイツの植民地は、第二次世界大戦の後に国連の決議により、フランスかイギリスのどちらかに戻ることになった。
■ エリートの出現
フランスは、セネガル、ベナン、コンゴ等のアフリカ圏の国を、西側、中央、東側のブロックに分けて教育を管理していた。アフリカで初めて大学を出ているエリートたちが出現したのは1921年であり、これはとても遅れている。日本では色々な大学が100年周年を迎えているが、アフリカにある大学で100周年を迎えた大学はまだない。
この1921年の前に、第一次世界大戦が勃発する。アフリカは、3世紀に及ぶ奴隷制度が終わり、ようやく力のある人たちが出てきたところであったにも関わらず、アフリカと何の関係もないこの戦争に巻き込まれることとなる。
1929年には世界恐慌が始まる。この世界初の金融危機はアフリカの遠いところで起こったのだが、当然アフリカも巻き込まれて、私のひいおじいさんたちも必死に働き、結果をださねばならない時代だった。
こうした大変な時代を超えて、アフリカの人たちはようやく学校へ行くようになった。アフリカの人たちがようやく、世界中の皆が学んだ文明をシェアできるようになったのである。すると、ある一部の人たちは、本の中で教えていることと実際のアフリカでやっていることが違うことに気づき、エリートたちはヨーロッパから離れたいと感じるようになる。このような状況下で、今度は第二次世界大戦が起こることになる。
■ 独立
アフリカの西側には、ナイジェリア、ベナン、トーゴ、ガーナ、コートジボワール、ギニア、セネガル、リベリア等の国がある。私はベナン人だといわれるが、トーゴにも私の民族がある。そして、ガーナにも私の民族があり、ガーナが私の民族のルーツである。第二次世界大戦のときに、私のおじいさんはフランス軍にいた。他のおじいさんはイギリス軍にいた。イギリスとフランスは友達だからそれでもまだよかったが、トーゴにいる他のおじいさんはドイツ軍に入った。こうして、同じ民族同士で戦うことになったため、第二次世界大戦によって、黒人たちの思いは大きく変わることになる。白人の支配の下では自分たちの明日がないと考え、独立の声がどんどん上がっていくのである。アフリカを出ていた黒人たち(マーティン・ルーサー・キングの父や、カリブ海のエメ・セゼール等)が、アフリカから来ている黒人たちと出会い、彼らは皆、黒人のためにもっと何かをやらねばならないと考えるようになる。こうして彼らは独立を考えるようになる。
しかし、私から見ると、独立を考えた彼らは間違えている。1884年以前のアフリカは今のアフリカと違い、国境というものがなく、まだ国というものがなかった。そして、英語やフランス語はなくて、皆、自分の部族の言葉を話していたのである。こうした状況をヨーロッパ人が管理して、国境を区切り、町を作ることにも、もちろん良い点はあったが、この結果、独立したときに問題が起こることとなる。たとえば、ベナンの場合は、ナイジェリアの中にベニンシティという場所があるが、それはヨルバ族と言う民族がベナンからナイジェリアの奥まで入っていったからで、どちらの国にもこの民族の言葉がある。
①イギリス領の場合
フランスと比べるとイギリスはとても面倒見がよく、イギリスが管理した国々では、彼らがいつか独立して自分たちの未来を考えるための教育が行われていた。実際に、イギリス領だったガーナは、1957年に独立を達成している。
②フランス領の場合
フランスはイギリスと異なり、アフリカの国々が独立することを考えたことがなく、その結果、アフリカのフランス語圏の国々は、独立への準備がなかった。
・独立まで
1944年、プラザヴィル会議の際に、アフリカのエリートたちはフランスに初めて独立を求める。ド・ゴール(後のフランス大統領)は、これを受けて独立を検討することを約束した。
1955年には、インドネシアのバンドンでアジア=アフリカ会議が開催される。これはアフリカやアジアの各国(自治植民地も含む)が自らのことを考えるためのもので、その時にアフリカは、それまで全く縁がなかった中国やソ連、インド等との友好を認めている。こうした独立への熱意と、周辺のナイジェリアやガーナが独立していることを受けて、フランスは動かざるをえなくなり、ド・ゴールは、再び約束をすることになる。その約束とは、「独立は認めるが、そのかわりコミュニティに残る」というものであった。しかし、これはアフリカ人の求めていた独立のモデルではなく、当然アフリカ人のためのものではない。
このド・ゴールの要求に当初からノーと言ったのは、ギニアであった。ギニアはその結果、今もまだ風邪が治っていないような状態である。
・新植民地主義
他方で、フランスの要求を受け入れた国では、未来のアフリカのエリートとなる人々が皆ほぼフランスの大学を出ていた。サンゴール(レオポルド・セダール・サンゴール、後のセネガル共和国初代大統領)やウフェ(フェリックス・ウフェ=ボワニ、後のコートジボワール初代大統領)やボンゴ(オマール・ボンゴ・オンディンバ、後のガボン2代大統領)等のアフリカを変えたいと考えている人たちに、フランスはフランスの国籍をあげて議員にまでした。その後再び彼らをアフリカに送り、彼らは独立の際に大統領となったのである。これが1960年頃のことで、アフリカ人は、ようやく白人ではなく、黒人のボスが登場したことに興奮した。しかし、こうしたボスたちは誰のために動くのだろうか。私の育てた犬が、あなたの言うことをきかないように、彼らはフランスが育てた人材であり、本当の意味でのアフリカ人のボスではない。このようなボスの下ではアフリカはアフリカ人の国ではなかった。つまり、植民地を表向き支配しているのはヨーロッパ人ではないが、実際にはヨーロッパ人が黒人を使って、黒人を管理しようとしているのである。このことに気付いたのは、現地の大学を出ているエリートたちであった。こうして、新植民地主義(ネオコロニアリズム)という言葉がアフリカに生まれた。
・クーデターの発生
こうした現状を打破しようとしたのが軍人たちだった。1970年代は、アフリカで軍人によるクーデターが始まる。フランスから来た人たちはクーデターによって倒され、軍人たちはフランスに代わる新しいゴッドファーザーを探しに、ソ連や中国、北朝鮮まで行った。なお、アフリカの軍人たちの中には、教育レベルが小学校3年生程度の人もいた。たとえばトーゴの前大統領は中学校に行っていないし、ウガンダでは学校へ行ったことがないような人々に国の未来を30年間も任せることになったのである。
アフリカ53カ国の独立後の初代リーダーの中で、クーデターによって辞めたのは21人である。10人は辞任。5人は、自らの意思で辞めており、この5人の中にセネガルのサンゴールも入っている。選挙によって変わったのは7人だけで、11人は独立してから亡くなるまでずっと大統領を務めた。独立して以来、現在もなお大統領であるのが2人で、ジンバブエのムガベ大統領がこれに該当する。(MPJ事務局注:アドゴニー氏談は1カ国に大統領と首相などリーダーが2人の国を含んでいるため合計が53人以上になっています。)
これが本当のアフリカの初代大統領たちの顔である。30年間近く、クーデターが起こるまで自分だけが大統領を務めるという、彼らの国に対しての思い入れもわかるが、結局はバッド・ガバナンスを招いてしまった。
そして、1970年代に入ると、軍のリーダーたちが、それまでの賢いリーダーたちを倒して、自分たちでよいことを行おうとしたのだが、彼らも結局だめなことをやってしまった。なぜなら、戦争によって皆が軍に恐怖心を持つようになり、軍人である彼らにノーを言う人がいなくなっていたからである。1980年には、アフリカの経済が再び悪化してしまう。たとえば1960年頃、ガーナはマレーシアとほぼ同程度であったのに、たった20年間の間に急激に下がってしまった。世界銀行や国際社会は、アフリカの経済状況の悪化と国民の飢餓の状態を見て、アフリカのリーダーたちに、もっと自分たちの国のガバナンスをきちんと行うようにプレッシャーを与えた。
・民主主義の動きと発展への課題
1989年のベルリンの壁崩壊をきっかけに、アフリカのエリートたちが皆立ち上がり、独裁者たちを倒す。そして1990年、民主主義が再びアフリカに戻ってきた。同時期に起きた冷戦の終結によって、日本の外交官もアクティブになった。もちろんそれまでも、日本は世界銀行や国際社会の裏からアフリカに沢山の支援をしていたが、日本の支援がNEPADやTICADといった大きな動きとして現れるようになったのは1990年代である。アフリカが民主主義に向かってガバナンスを大事にしようと考えると、日本のODAや色々なものが入ってきて、JICAや色々な所も入ってきて、道路や学校、病院等色々なものができた。JICAによって、アフリカの人たちが日本に来て教育を受けることもできた。国によっては、大統領選挙を行うようになった。
こうして新しい時代に向かって2000年に入ったが、アフリカの民主主義と言うのは基本的に弱い。なぜなら、民主主義の下に、ある問題が残されているからだ。それは、トライバリズム(部族中心主義、同族意識)である。アフリカを国に分けたときに民族がばらばらになり、それが民族間の争いの元となっているのである。
アフリカが発展への道をたどるには、沢山の小さな風邪を治すことが必要であり、そうしなければ大きな風邪は治らない。たとえば日本人はインフルエンザと戦うために手を洗ったり、マスクをしたりして、最後にタミフルに頼る。しかし現在のアフリカは、手を洗ってないし、マスクもない状態に、いきなりタミフルを与えるようなものである。
4.現状と課題
■ インフォーマル・エコノミー
今、アフリカにはインフォーマル・エコノミーというものがある。インフォーマル・エコノミーとは、日本のきちんとしたビジネスのようなものではなく、たとえば水を汲んできてそれをその辺りで売るような商売のやり方である。幾ら儲かっても誰も文句を言わず、すべて自分のものになる。こうしたインフォーマル・ビジネスは、アフリカにとってチャンスであり、マイナスでもあるので、きれいにコントロールすることが必要である。
■ アフリカの資源
アフリカは世界の資源の宝庫であるのに、それが死んでいる状態である。アフリカの資本が30年、40年経ってもなかなか立ち上がることができないのは、バッド・ガバナンスの影響が大きい。これまで話してきたように、最初のエリートは頭がよいが、愛国心がなかった。第二のエリートは愛国心があったが、頭が悪かった。そして、第三のエリートは愛国心があって頭もよいが、自分の財布のことを考えてしまっている。こうしたエリートたちによって、アフリカは段々遅れてしまっているのである。
■ アフリカの民主主義
皆が、民主主義がなければ発展できないと言うが、最近私はそれに疑問を感じている。たとえば中国は、民主主義ではないが、世界の皆が経済の成功を認めている。どこまで成功するのかはわからないが、私たちは中国にも学ぶことがある。
アフリカにも昔から、民主主義があった。私の祖母は学校に行ったことがないが、彼女の言うことは、山形にいるおばあさんが言うこととつながっているときがある。日本の今の民主主義は、とても日本的なところがあるが、そのようにアフリカにもアフリカ的な民主主義があったのである。この、アフリカ的な民主主義が、突然来たヨーロッパからの新しいシステムに崩されてしまった。アフリカでは20%の人しか税金を払っていない。80%の人々は、ヨーロッパから来ているシステムにはあまり関係がないと思っており、彼らをサポートしなければならない。
■ 農業の問題
日本ではきちんと税金を払ったり、仕事がないと非常に困ったりするが、アフリカはとてもゆっくりしている。これにも原因があって、少し前までは自給自足だったために色々な悩みがなかったのである。悩みがアフリカの社会に入り始めたのは1930年代からである。なぜなら、子どもたちが学校に行かねばならなくなると、誰が農業を手伝うのだろうか。50年代になると女性も学校に行くようになり、状況はもっと厳しくなる。老人だけで農業をするのは無理である。
私たちの今の恵まれた新しい文明には、毒の部分もある。1年間農業を一生懸命やっても、トウモロコシはそれほど採れないが、町ではただバイクを運転して人を運ぶだけでずっと儲かるのである。その結果、皆が田舎から町に引っ越しをすることになってしまう。
アフリカは現在飢餓の問題を抱えている。他方で、ドバイやイスラエルなどは、土地がないにも関わらず、少しの土地の上でもすばらしい農業を行っている。アフリカには、農業をやるのによい土地がある。ただし、アフリカはヨーロッパが必要とする資源(コットンやコーヒーやココナツ等)ばかりを作っていて、自分たちが必要とするものに力を入れてこなかった。私から見ると、アフリカはこれまで自分のことを大事にしてこなかった。そういうことを考える暇がなかったのである。もっと自分のことを大事に思うことが必要だと思う。
■ グッド・ガバナンス
これまで述べてきたように、アフリカには今まで3種類のエリートがおり、そのためにアフリカは完全に遅れてしまった。アフリカの貧困の原因はたくさんあるが、アフリカ人たちが立ち上がり、大きなスローガンが生まれない限りは、国際社会がどんなに手伝っても結果を出すことは難しい。
1990年から現在まで、アフリカではグッド・ガバナンスがブームになっている。だから、最近はアフリカでクーデターが起こると皆驚く。今、アフリカで最も話題になっているのはギニアである。ギニアでは、愛国心のある軍人がクーデターにより大統領となり(ムーサ・ダディ・カマラ)、70年代の状況に戻っているのである。このギニアの問題を解決するための担当として、国際社会が選んだのは、ブルキナファソの大統領(ブレーズ・コンパオレ)である。彼は80年代からずっと大統領を務めており、ギニアの大統領も、彼のような年長者の言うことなら聞くのではないかと思われて選ばれた。しかし、大統領の経験が長く、現在は民主主義を掲げているものの、彼も元はといえばクーデターによって大統領になった人物なので、実際にはどこまで民主主義的な人物なのか誰にもわからないのである。
5. 紙芝居の上演
アドゴニー氏作の紙芝居の上演。
6. 質疑応答
Q1:アフリカが国際的な援助から自立するために一番重要なことは何か。
A1:グッド・ガバナンスが重要である。一人の人間にたとえると、今は夏で、おなかがすいているとする。そこでたくさんの物をもらっても、それを真面目に管理することができず、たとえば売ってしまって変なものを先に買ってしまったりすると、冬までもたないかもしれない。だから、よいことをよいところで行う、グッド・ガバナンスが重要なのである。ブラジルや中国、インドも、皆グッド・ガバナンスによって徐々によくなっていると思う。
Q2:アドゴニー氏から見て、今の日本に一番やってもらいたいことは何か。
A2:私はやはり、日本のシステムであると思う。アフリカは今、システムによる失敗をしている。私の母国であるベナンは、フランスのシステムが非常に強い。しかし、フランスのシステムは世界でもあまりよいポジションではない。それをフランス人も分かっており、サルコジ大統領は今、フランス人を真面目に働かせることに一生懸命取り組んでいる。フランス人は休憩が長く、土曜日や日曜日も仕事をしない。他方で、日本は土曜日も日曜日も、クリスマスも年末も天皇誕生日も、皆文句を言わずに仕事をしている。日本人はきれいなシステムを持っており、たとえばあなたが休みの時には、他の人が仕事をしているのである。私は日本に来てからの9年間、ストライキを見たことがない。一人ひとりの自己責任のレベルが大きいのもすばらしいと思う。
アフリカにも、ヨーロッパの大学を出た、バラク・オバマのお父さんのように頭のよい人は、昔からたくさんいる。しかし、彼らにはビジョンがないのである。たとえば車があっても、ナビがなければ、目的地に早く着くことはできない。日本に住んでいる私から自分の国のリーダーたちをみると、彼らは迷子になってしまっているように見える。だから、彼らに必要なのは、システムなのだと思う。
Q3:サルコジ大統領はアフリカを自立させるために、特に西アフリカの国に対して、ファイナンスもアーミーもカットすると言っているがそれについてどう思うか。
A3:私はアフリカにはアーミーは必要ないと思う。愛と平和さえあれば、人間は普通に成功する。アフリカには貧困のために泥棒などの犯罪を起こす人がいるが、それも、日本のような警察があればよいのだと思う。
そして、ファイナンスも大事である。アフリカにはインフォーマルに作ったものが山ほどあり、新しいプロジェクトを導入することが必要である。日本には、色々なサービスがある。最近では、あなたのためにショッピングをしたり、片づけをしたりする会社ができているが、そもそも30年以上も前から炊飯器によってお米を自動に炊くことができるようになっている。他方、アフリカではこうしたものはなくて、薪を使ったり石油を使ったりしてご飯を作るだけでも大変な労力を必要としているのに、今まで誰も何も考えていないのである。
Q4:今までにヨーロッパの国が侵略をしてきて言語の分断等をされているが、アフリカの国と国の人たちが仲良くなるための活動としてはどのようなものが行われているのか。
A4:ベナンとニジェールは、基本的にはとても仲がよいが、国境のために喧嘩をしている。ヨーロッパ人が来た時に、彼らは資源が目当てであったため、小さな島には興味がなかった。そこで、彼らがその島を地図に入れ忘れたために、今、それを誰のものにするかで揉めているのである。
私はベナンで生まれたが、ベナン人と言われても私は喜ばない。私の民族はエウェであり、エウェのルーツはガーナである。そこから、トーゴやベナンに広がった。けれども、私の父はベナン北部の人で、ニジェールやブルキナファソとつながっている。これらがすべて私の中でつながっている。そして、私は5歳から世界へ出て、21歳で中国へ行き、26歳で日本に来て以来、ずっとここにいる。私がはじめて仕事をしてお給料をもらったのは日本で、たまに自分の住んでいる新宿の部屋にいると、アフリカとは縁がなく、むしろ、日本人ではないかと思うことがある。
私は日本の47都道府県に行ったが、沖縄と北海道では、言葉が異なるが、皆、食べているものはほぼ一緒である。日本では、お米を作ったら、一億三千万人が食べられる。しかし、ベナンではお米を食べる人もいれば、トウモロコシを食べる人もいれば、ヤム(ヤム芋)を食べている人もいる。一つの国の中でも、習慣や文化が全て違うのである。だからなかなか難しい問題である。
1960年以前に、サハラの人たちに国境はなかった。彼らは自分たちの牛やヤギを自由に行ったり来たりさせていた。しかし、ここにはウランがあった。資源があると土地が価値を持つようになるから、フランスや色々なところが狙って、そこにいた人々は出て行けといわれる。ハウサという民族は、カメルーンにもニジェールにも、ブルキナファソにも、ベナンにもいるが、彼らには国がなく、自分たちの国を探している状態である。このような問題はアフリカに沢山あるが、解決する前に、また新しい問題が生まれているような状況である。
Q5:最近、中国がアフリカ諸国に色々と資金援助をしているが、それにより、スーダンでは軍事政権にお金が回り、治安が悪くなってしまっている。それをふまえて、中国のような国はアフリカの経済発展に必要だと思うか。
A5:1970年代から、アフリカと中国はおもしろい関係だった。当時、中国との関係を結んでいたリーダーたちは中国語も話せず、ただの気持ちでつながっていた。ヨーロッパが嫌だという感情をもち、悩みを共有していたから、30~40年前の中国とアフリカは簡単に友人になることができたのである。
現在は、スーダンのように、中国との関係をうまく利用しているアフリカの国もある。中国も、自分のよいように使っている。スーダンという国は、そろそろ理解をしないと危険な国である。スーダンは紅海に近く、このポジションは、世界の皆がほしいと思っている。なぜならスエズ運河がそこにあり、スエズ運河は昔から戦争の原因になっているのである。また、スーダンには石油等の豊富な地下資源がある。
私がなぜ日本が好きかというと、日本は世界で一番平和な国で、世界で一番美しい国だと思っているからである。日本の外交はアグレッシブではなく、とても冷静で優しい外交である。ニュースを聞いていても、日本はそれほど表に出ていないが、実際には、パレスチナやアメリカ、ヨーロッパ、イラン等あらゆるところと関係している。日本の文化から理解すると、日本人は人に強く言うことがない。
しかし、中国はアフリカに甘えている。中国を大きくしたのはアフリカである。中国はこれから成長したいと思っており、そのためにはまずエネルギーが必要である。だから、現実的には中国はアフリカに強い立場ではない。
たとえば、石油の需要が世界4位であるフランスが使っている石油は、ほぼフランス以外(ガボン、コンゴ、ドバイ等)の石油である。ガボンの大統領は、30年以上もオマール・ボンゴ・オンディンバが勤めていた。そして、彼が亡くなると息子が大統領になった。こういうのがアフリカの現実である。アフリカを支援するためには、各国のガバナンスに着目しなければ、支援が国民まで届かないのである。だから私はJICAのアクションが好きである。JICAは国民のもとに直接いく支援をしている。
Q6:アドゴニー氏は料理が得意でアフリカ料理や日本の料理をミックスさせたようなものを作っていらっしゃるが、それについてうかがいたい。
A6:私はおばあちゃん子である。祖母はベナンがフランスの植民地だったときに、総督の家でメイドとして皿洗いをしていた。ある日、フランス人のシェフに、祖母がヨーロッパとベナンの技をミックスして料理を作ったところ、これを総督が食べて喜んだ。その一件から、祖母はメイドからアシスタントシェフになったほど料理が上手だった。私の父は外交官だったので、母も世界の色々な国に行って色々な国の料理の影響を受け、私の家の料理はインターナショナルなものになった。こうした料理を私は祖母や母から学んだ。私は12歳から寮生活をしたのだが、その前に、祖母が私に3週間かけて祖母の料理(味付け等)を全て教えてくれた。私は好き嫌いが多いこともあり、中学から大学まで、自分のご飯を自分で作っていた。
中国へ行って3カ月位した頃、友人のヤマモト氏とはまだ言葉が通じない状態であったが、彼が焼き鳥を大好きだったので、私は彼にご飯を作ってあげることを約束した。中国では市場に行くとニワトリが生きている状態で売っていたので、私はそれを買って帰り、絞めて料理を作った。ヤマモト氏は最初そのニワトリをペットだと思ったので、私が料理したことを知って真っ青になり、それまでの友人関係が壊れてしまった。しかし、彼のお母さんが私たちの仲を心配して神戸から来てくれて、祖父の時代は同じことをしており、私のやったことは悪いことではないのだと話してくれた。そしてヤマモト氏は私に謝ってくれた。この事件以来、私は、はじめて人のことを気遣うようになった。最近は、特に日本人とのやりとりでは同じことを3回聞くようにしている。私は日本が大好きで、東京よりも田舎がもっと好きである。日本人はとても優しい。日本はとてもよい国で、医者も一生懸命で治らない病気もないはずなのに、戦争もないのに、毎年33000人もの自殺者がいることを本当にもったいないことだと思う。日本人は忙しいのでなかなか機会がないが、私はもっと多くの日本人にアフリカにきてほしいと思っている。
最近は、色々な友人にご飯を作ることが多い。東京で私が驚いたのは、日本人はご飯を見るだけで、おいしそうだと思うことである。他の国では匂いをかいだり、実際に食べたりしないかぎりそう言わない。だから、日本人がこんなに料理好きなので、私は祖母から勉強した料理と日本の味とをフュージョンして、「和フリカン」というコンセプトを作った。今年は、和フリカン全国ツアーといって、日本のあちこちに行ってご飯を作り、皆と盛り上がっている。来年は中国の上海万博で行う予定である。私の料理の活動に興味のある方は私のホームページをご覧いただきたい。
7.外務省アフリカ一課渡邉謙太氏よりコメント
私はもともとアフリカの本などを読むのが好きで、学部時代に高校の友人と旅をしたのが、私のアフリカとの出会いである。
本日アドゴニー氏の話で印象的だったのは、国境と民族が一致していないという部分である。私は以前、半年ほどケニアにいたことがあるが、そこはソマリアのそばで、民族としてはソマリ族であるが、国としてはケニアであった。色々な民族の人がいると、身長や体格、話している言葉も違い、アフリカの問題を考えるときには、民族の話がとても大事だと思っている。
私はまだ西アフリカの方へ行ったことはないが、今外務省でフランス語をやっているので、4~5年後にはこの辺の大使館にいきたいと思っている。
私はギニアやスーダンという国も担当しているが、なかなか簡単な問題ではなくて、スーダンでは北と南の対立があって、それは俗にアラブ人と黒人の対立と言われるが、北の中でも南の中でも色々な対立があり非常に複雑な問題を抱えている。私としては、そうした簡単にいかない問題について、アフリカの人たちと一緒に今後仕事をしていければよいと思っている。
アドゴニー氏の今日の話には本当に興味深い点がたくさんあった。やはり私たちは、アフリカを地理的にも文化的にも非常に遠いと思うが、料理や年長者を敬う文化等、ときどき近いと感じられるものがある。日本は冷戦が終わってからアフリカでは目立たないというお話があったが、JICAや外務省やNGO等、色々なところの方がアフリカの問題に一生懸命取り組んでいるので、今後、少しでもアフリカが発展するお手伝いができればよいと思う。アドゴニー氏には是非今後も日本とアフリカの懸け橋としてご活躍いただきたい。
以上